「闘将」えとう・しんいち。熊本県山鹿市出身。旧名慎一。熊本商業高校から日鉄二瀬を経て1959年、中日ドラゴンズに捕手として入団。一塁手に転向し1年目からレギュラー。1964年・1965年には2年連続首位打者に輝き、王貞治の三冠王を阻止。1967年・1968年には34・36本塁打。また、1962年・1963年には捕手難で内野手から捕手になったこともある。写真は1966年のもの。
その豪快な性格から「闘将」と呼ばれ、毎晩飲み歩き、酒の匂いをさせてグラウンドに現れることもあった。それが元で1969年、水原茂監督との確執から引退に追い込まれるが、日鉄二瀬、中日時代の恩師で当時ロッテオリオンズの濃人渉監督就任を機にロッテに移籍。
1971年に3度目の首位打者に輝き、史上唯一の両リーグ首位打者を獲得。しかし大沢啓二新監督の来季構想から外れ、同年大洋ホエールズに電撃移籍。1975年、地元・九州を本拠地とする太平洋クラブライオンズに兼任監督として移籍。ユニホームの後ろポケットにバットを突き刺すというスタイルで注目を集め、Aクラス入りの成績を上げる。1976年、金田正一監督に請われロッテに復帰し、この年限りで現役引退。首位打者獲得3回、ベストナイン6回、オールスター出場11回、オールスター最優秀選手2回。
引退後は、1985年、静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現・伊豆市)に「日本野球体育学校」(通称「江藤野球塾」)を設立し、後に社会人ヤオハンジャパンとなり、多くのプロ野球選手を輩出する。2003年夏ごろに脳梗塞で倒れて入院、以後は寝たきりの生活であった。また若い頃の飲酒の影響で肝臓に癌が出来ていたという。2008年2月28日午後3時38分、肝臓癌のため東京都内の病院で死去。70歳。弟は元プロ野球選手の江藤省三。
野球の鬼・闘将江藤慎一さん逝く ドラの主砲、セ・パ首位打者
プロ野球界の巨星がまた1人いなくなった。中日、ロッテなどで強打者として活躍し、史上初めてセ、パ両リーグで首位打者になった江藤慎一氏が28日午後3時38分、肝臓がんのため、東京都内の病院で死去した。70歳。気迫をむき出しにするプレースタイルから「闘将」と呼ばれた中日の代表的な強打者だった。 昭和のプロ野球を沸かせた豪傑は70年の生涯を静かに閉じた。
晩年は病との闘いだった。99年に肝臓を手術。03年夏に脳こうそくで倒れてからは入院生活が続いた。ここ数年は容体も安定していたが28日午後になって急変。前日夜から同日午前にかけて、巨人、中日で活躍した弟・省三氏ら弟たちが相次いで見舞ったのが、弟たちとの別れとなった。
江藤氏は、4人兄弟の長男として生まれ、1959年に中日に入団。1年目からフル出場。どんなボールでも左に引っ張る豪快な打撃で頭角を現し、64、65年に連続首位打者。巨人・王貞治一塁手(現ソフトバンク監督)の3冠王を連続して阻んだことを「野球人として最大の誇り」と喜んだ。当時の水原茂監督との確執から中日を退団すると、ロッテに移籍。ここでも首位打者となり、日本シリーズではV9巨人と対戦した。
史上初の両リーグ首位打者として一時代を築いた男は、どんぶりで日本酒を飲み明かしても翌日に平気でプレー。野球の鬼とも形容され、一塁へのヘッドスライディングなどスタイルも豪快そのものだった。郷里・九州に戻った太平洋では外野手兼監督として“山賊野球"を率いた。バットをズボンの後ろポケットに刺してチームの先頭に立ち、平和台球場を大いに沸かせた。
引退後の85年には、伊豆半島にある静岡・天城湯ケ島に野球塾を設立。アマ球界に身を置いたが、中日ドラゴンズへの愛情は深く、「(一軍の)監督は無理でも、二軍の打撃コーチになれたら…。ドラゴンズの若い人を教えたい」と語り、指導者として古巣・中日に戻りたいという夢を抱いた時期もあった。
長い闘病生活となったが、豪快な九州男児は弱ったところを見せたくなかったのだろう。親族以外はほとんど病室に入れなかった。プロ野球関係者で病床を見舞ったのは親しかった江夏豊氏(阪神、西武など)ら数えるほど。衰えてもなお気骨あふれる生き方を貫いた。波瀾万丈の人生は、最後まできらめいていた。(中スポ)
「心」が信条の男だった
私の宝物の一つに、現役時代のいろんな思い出を張り付けてきたスクラップブックがある。その1枚が1964年9月10日の巨人戦(後楽園)のスポーツ記事。江藤さんが王さんとの直接対決でホームランを放ち、初の首位打者へ走り始めた日のものだ。
私が今も覚えているのは、その前夜。当時の中日の主力は江藤さん、葛城隆雄さん、権藤博さん(元横浜監督)ら九州出身の豪傑ぞろい。遠征先では毎晩、鍋を囲んで、一升びんが空になるまで酒盛りを繰り広げていた。そんな席になぜかいつも呼ばれていたのが、まだプロ1年生の私。その夜も、いつ果てるともない宴が続いていた。私の方が気が気じゃない。明日は江藤さんにとって、タイトルの行方を占う大事な試合。そこで、とうとう「きょうは、ゆっくり眠って明日に備えましょう」と、生意気にも天下の江藤さんに意見してしまった。
すると即座に「バカモン」の怒声。「ボールは心で打つものや。逃げちゃいかん。向かっていくものだぞ」と、逆に説教された。オレを見くびるな。一升や二升の酒で、オレのバッティングが変わるか。気迫が萎(な)えるか−と言いたかったんだろうね。その言葉通り、翌日の試合で江藤さんは、王さんを抜き、打率トップに躍り出た。
その後も随分、江藤さんにはかわいがってもらったが、今思い出そうとしても、江藤さんが練習していた姿を見た記憶がない。「心技体」というが、体よりも技術よりも「心」を大事にし、それがあれば必ず道は開けると信じる人だった。 (中スポ評論家・木俣達彦)