S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
based on "BACKWARD REGION"
稲尾和久(70歳)
「鉄腕」「神様、仏様、稲尾様」いなお・かずひさ。投手、監督、野球解説者。現役時代の背番号は24。大分県別府市北浜出身。七人兄弟の末っ子に生まれる。漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃からよく海に出た。中部中学時代のポジションはキャッチャー。 1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団。高校時代は全く無名で、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言し、口の悪い豊田泰光は「手動式練習機」とも呼んでいた(但し、豊田泰光は週刊ベースボールの連載コラム(稲尾追悼回)にて「稲尾が打撃投手としてとられたというのは嘘。三原監督は早くから稲尾に注目していた」と述べてもいる)。

1年目から21勝6敗、防御率1.06(2007年現在パリーグ記録)の好成績を残し、最優秀防御率と新人王を獲得した(ちなみにこの年、新人にして154試合全試合にフルイニング出場し180安打を記録したにもかかわらず、稲尾との直接対戦成績(18打数1安打)が決め手となり新人王になれなかったのが、後にキャスターとして活躍する佐々木信也)。

2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、「野武士軍団」西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。

1958年の日本シリーズで読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾を三たび先発させて勝利すると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという獅子奮迅の活躍を見せ、優勝時の地元新聞の見出し「神様、仏様、稲尾様」は、今なお稲尾の枕詞となっている。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。

デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録(57年)、シーズン42勝/同353奪三振/同78登板(いずれも61年)、日本シリーズ通算11勝、MVP2回、最多勝4回、最優秀防御率5回、ベストナイン5回など、鉄腕の名をほしいままにした。当時の「エース」と呼ばれる投手は、先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前だった。それに加え、三原脩監督の投手起用法が良くも悪くも実力者偏重であったため、頭角を現した後の稲尾は登板数が急激に増加した。米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても登板試合数が極端に多い。1962年8月25日、通算200勝を達成。25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録である。

ある大学が「プロの投手の集中力と精神力」を調査するため、稲尾を含む西鉄投手陣に、捕手の構えるところに正確に、続けてボールを投げ込むことができるかどうか、という実験を依頼した。稲尾は外角低め、外角高め、内角低め…と、何十球も連続して捕手の構えるところに、少しもミットを動かすことなくボールを投げ込み続けた。この制球力を見て他の投手は「やっていられるか」と呆れ、実験の参加を辞退した。また、リリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。

しかし、1964年にはそれまでの酷使がたたって肩を故障。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。稲尾の早期引退が先発ローテーション制度が広まるきっかけになったと言われるほど、当時の衝撃は強いものがあった。



引退翌年の1970年からライオンズの監督に就任。32歳での監督就任は専任監督として最年少である。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却される(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサー)という苦境の中で指揮をとり、三年連続最下位になるなど散々な成績に終わり1974年限りで退任。ただし後に大投手となる東尾修や加藤初を酷使と批判されながらも若手時代に積極的に起用し後の活躍の礎を構築した。

1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日投手コーチ。1984年よりロッテオリオンズ監督。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。以降は解説者、プロ野球マスターズリーグ福岡ドンタクズ監督、沢村賞選考委員(のちのに委員長)など。2007年11月13日午前1時21分、悪性腫瘍のため死去。70歳。
[PR]
by nob_io | 2007-11-13 13:08 | 野球関連2007 |
* * *