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島野育夫(63歳)
しまの・いくお。栃木県宇都宮市出身。作新学院高校から社会人野球の明電舎に進み、1963年に中日ドラゴンズに入団。1968年シーズン途中に南海ホークスに移籍。野村克也選手兼任監督のもとで頭角を現し、1973年には61盗塁を記録するなど俊足巧打の一番打者、守ってはこの年のゴールデングラブ賞を受賞する強肩外野手として活躍、この年の南海の優勝に貢献する。翌年・翌々年もゴールデングラブ賞に輝き、中心選手としてチームを牽引した。1976年に阪神タイガースに移籍し、1980年をもって現役引退。

1982-84年、阪神の守備・走塁コーチ。1986年、中日のコーチに就任。翌1987年に星野仙一が監督に就き、そこから星野とともに活動する機会が増える。現役時代は後輩の星野仙一を呼び捨てにしていたが、星野は2歳年上の島野を「島ちゃん」と呼ぶ一方、監督とコーチという関係になった時から島野は「監督」と呼び敬語を使うようになり、それは終生変わらなかったという。落合博満は現役引退後の著書で、中日が優勝を果たした1988年シーズン中、コーチ陣では島野だけが選手の相談役となり、起用法などの不満を聞いてやっていたと綴っている。鬼軍曹と呼ばれていたが、選手たちからも信頼されていた。相手の癖を盗む特技を生かし、1992年、阪神のコーチに復帰。1995年、中日に二軍監督として復帰。この年には休養した高木守道、徳武定祐の後を受け監督代行を務める。1999年の第2次星野政権のリーグ優勝に貢献、球界屈指の名参謀としてその名を轟かせる。

2001年オフ、阪神の監督に招聘された星野仙一に従う形で阪神にコーチとして復帰。この時、島野は中日の二軍監督として残留することになっており、すでに発表済みでもあったが、それを一方的に破棄する格好になった。中日側からは批判の声があがったが、星野は「オレと島ちゃんはどんな名刀でも切り裂くことができない」と言い、非はこちらにあるが、勘弁してくれと中日サイドを説得したという。星野の妻からの信頼も厚く、中日時代に交わした「主人を日本一にしてあげてください」という約束を守るために星野に追随して阪神に移籍したとも言われる。2003年に阪神がリーグ優勝を果たすのに大きく貢献した。当時健康問題を抱えていた星野が試合中にベンチで休み、それに代わってヘッドコーチの島野が実質上の采配をふるったこともあった。翌2004年、星野の勇退とともにコーチを辞任しフロント入りしたが、2005年に久万俊二郎オーナーの鶴の一声で一軍総合コーチに復帰した。2006年には二軍監督に就任するが、4月26日から胃潰瘍による長期入院を余儀なくされ、シーズン中は立石充男二軍打撃兼守備コーチが監督代行を務めた。2007年、現場から離れ総合特命コーチに就任。12月15日、胃癌のため兵庫県西宮市の病院で死去した。63歳。亡くなる数か月前、神戸・三宮に創作洋食の店をオープンし、オーナーとして経営していた。島野が亡くなってからは夫人が店長兼オーナーを務めている。
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by nob_io | 2007-12-15 13:36 | 野球関連2007 |
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