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カテゴリ:野球関連2005( 8 )
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仰木彬(70歳)
おおぎ・あきら。1953年、東筑高校全日制課程商業科3年の時に全国高等学校野球選手権大会に投手として出場し、翌1954年西鉄に入団。期待のルーキーだったが、フリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた三原脩監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」と、その場でセカンドにコンバートされた。三原は仰木の投げる球の回転があまりにも素直であると感じ、正二塁手の宮崎要が37歳だった事も考慮し転向を命じたという。急造内野手にも関わらず1年目からレギュラーに定着、以降長きに渡り中西太・豊田泰光と共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。また当時から三原とは野球理論について議論を交わし、この時の経験が後の監督時代に芽を吹くことになる。1967年限りで現役を引退し、その後は2年間西鉄のコーチを務めた。

1970年、三原脩が監督を務めていた近鉄の守備走塁コーチに就任。1984年、ヘッドコーチ昇格。1988年、岡本伊三美監督の後任として近鉄監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末「10.19」で惜しくもリーグ優勝を逃したものの、翌1989年にはオリックス、西武との三つ巴の接戦を制し、2位オリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)でチームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年読売ジャイアンツを相手に行われた日本シリーズでは、語り草となる3連勝後まさかの4連敗を喫し、チーム初の日本一をあと一歩のところで逃す。その後も毎年Aクラスという成績を残し、野茂英雄や赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。

見物人の論理「早熟の選手・遅咲きの指導者〜仰木彬氏を悼む。」より引用:

 35歳で近鉄入りしてから、実に18年もの間、仰木は近鉄のコーチを勤めていた。この間、監督は三原から岩本尭、西本幸雄、関口清治、岡本伊三美と移り変わり、仰木自身も二軍に回った時期もあるが、同じ球団の中でずっとコーチを務めてきた。
 指導者として、少なくとも普通の野球ファンから注目されるような存在ではなかった。栄光の西鉄黄金時代の一員として現役時代のエピソードが語られることはあっても、コーチとしての手腕が話題になることなど皆無だったといってよい。
 だから、監督になった途端にさまざまな奇策を繰り出し、選手の力を引き出して成績を向上させたことは、大いなるサプライズだった。仰木が名監督と呼ばれるようになった後、西本幸雄が仰木のことを問われて、びっくりした、自分の下でコーチをしていた時からは想像もつかない、という意味のコメントをしたのを読んだ記憶がある。

1991年〜1992年と2年連続西武との優勝争いに破れ、1992年をもって近鉄監督を勇退。1年間の解説者生活を経て1994年、オリックスの監督に就任。二軍暮らしを続けていたイチロー、田口壮の素質を開花させ、就任2年目の1995年、チームを初(前身の阪急時代を含めると1984年以来11年ぶり)のリーグ優勝に導く。日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルト相手に1勝4敗でまたも日本一を逃す。翌1996年にもリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる巨人と対戦。4勝1敗で勝利し、監督として初の日本一に輝いた。その後、リーグ優勝はなかったが1999年までAクラスをキープし続けた。2001年限りで監督を勇退。様々な奇策による采配は、恩師三原脩に重ねて「仰木マジック」と呼ばれた。

ふたたび解説者を経て2005年、近鉄との合併によって誕生した新生オリックス・バファローズの監督としてみたび監督復帰。3年連続最下位に沈んでいたオリックスを4位に浮上させた。シーズンオフ、球団から続投要請を受けるも高齢を理由に勇退。球団のシニア・アドバイザー(SA)に就任する。しかし直後に体調が悪化し入院、勇退からわずか2ヶ月足らずで死去した。



仰木は1990年代半ばに肺癌が発覚、闘病を続けていたが、誰にもそれを口外せず、「グラウンドで死ねたらオレは本望」と、病をおして1年間チームを指揮した。しかし後半戦は居眠りや、ベンチに腰掛けたまま動かないシーンも目立ち、関係者の中には監督の激務を懸念して勇退を勧める者も少なくなかった。シーズン後半には、球場の階段を上ることすらできず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りしていた。

現役時代から遊び人として知られ、「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」がモットーの三原監督から「仰木と豊田だけは制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。監督になってからも、『ニュースステーション』出演時に小宮悦子アナウンサーを本気で口説いていたというエピソードもあるなど、現役時代と変わらなかった。西本幸雄監督の辞任後、毎年のように近鉄の次期監督候補として名前が挙がりながら、結局18年もコーチを続けることになったのは、そういった仰木の私生活を球団首脳が不安視したからだと言われている。また監督時代には、スタッフミーティングで「門限を設定して、破った者から罰金を徴収してはどうか」と議論に上がった際、「そうなったら俺が一番困る」と真っ先に反対したとも言われている。2005年12月15日午後4時10分、肺ガンによる呼吸不全のため、福岡県内の病院で死去、70歳。
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by nob_io | 2005-12-15 21:14 | 野球関連2005 |
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今津光男(67歳)
いまづ・みつお。県立尼崎高校卒業後の1957年、中日ドラゴンズに入団。1965年広島カープ、1974年阪急ブレーブスに移籍し、翌年に引退。俊足好守の遊撃手として19年間活躍した。現役引退後は日本ハム(1977年〜1986年)、オリックス(1990年〜1991年)、近鉄(1992年〜1994年)のコーチを歴任。1990年には対日本ハム戦でトニー・ブリューワへの死球がきっかけで乱闘騒ぎが起こり、日本ハムの近藤和彦コーチを蹴り飛ばした。2005年11月7日、肺癌のため東京都清瀬市の病院で死去。67歳。
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by nob_io | 2005-11-07 21:10 | 野球関連2005 |
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中内功(83歳)
なかうち・いさお。ダイエーの創業者・元会長・社長・グループCEO。実家(サカエ薬局)を皮切りに35歳の時(1957年)に大阪市旭区の京阪本線千林駅前に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」を開店。ダイエーのエーは祖父、中内栄のエイ。当初は薬局で、後に食料品へと進出していった。神戸三宮にチェーン化第1号店となる三宮店を開店、価格破壊をはじめ既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこす。1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのし上がった。

また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ、ドムドムハンバーガー、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開、さらに南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入。福岡ダイエーホークスを誕生させ、更に福岡ドームの建設に着手するなど、急拡大するグループのカリスマとして君臨した。

しかしバブル崩壊後は業績低下の一途をたどり、「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何もない」と揶揄されるまでになった。2001年「時代が変わった」としてダイエーを退任。2005年8月、脳梗塞で倒れ、同年9月19日に神戸市立中央市民病院において死去。83歳。福岡Yahoo!JAPANドームには「For the customers」と書かれた直筆の色紙が今も飾られている。
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by nob_io | 2005-09-18 21:13 | 野球関連2005 |
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宮下信明(81歳)
みやした・のぶあき。名古屋市出身、1942年プロ野球、大和(現在は消滅)に入団。44年から巨人、48年から中日に在籍し54年に引退。投手として通算34勝29敗のほか、内野手としてもプレーした。 9月6日午前10時12分、呼吸不全のため名古屋市千種区の病院で死去、81歳。
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by nob_io | 2005-09-06 21:08 | 野球関連2005 |
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田中尊(69歳)
たなか・たかし。1955年、高松商業高校から南海ホークスに入団。野村克也がいたため出場機会がなく、1957年に広島カープに移籍してから頭角を現す。捕球術、インサイドワークには定評があり、正捕手として広島投手陣を盛り立てた。1972年に現役引退後は広島のコーチに就任。参謀として古葉竹識、阿南準郎両監督を支え、5度のリーグ制覇、3度の日本一に貢献した。のちフロント入り、ドミニカのカープアカデミーで育成部海外担当を務めた。2005年5月12日、肺炎のため広島市内の病院で死去。69歳。
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by nob_io | 2005-05-12 21:07 | 野球関連2005 |
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大社義規(90歳)
おおこそ・よしのり。日本ハム創業者、日本ハム球団初代オーナー。香川県大川郡津田町津田(現在のさぬき市)出身、叔父の経営する養豚組合に就職したのち、1942年に日本ハムの前身母体「徳島食肉加工工場」を設立。その後大阪府大阪市に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に現社名に変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。

1973年には、プロ野球パシフィックリーグ日拓ホームフライヤーズを買収し、日本ハムファイターズとしてプロ野球に参戦、球界きっての野球好きのオーナーとして有名。 足しげく球場に観戦に通い、選手に声を掛けている姿はファンによく目撃され、新入団選手発表記者会見にもほぼ毎年顔を出していた。また選手の仲人も数多く務めた。2002年経営から身を引き、2005年4月27日午後5時45分、兵庫県の病院にて心不全のため死去。90歳。1981年リーグ優勝の胴上げの時に着ていたユニフォームの背番号100は、オーナーとしては初めての永久欠番となった。
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by nob_io | 2005-04-27 21:04 | 野球関連2005 |
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ドン・ブレイザー(73歳)
NPBの登録名:Don Blazer、MLBの登録名:Don Blasingame、本名:Donald Lee Blasingame(ドナルド・リー・ブラッシンゲーム)。アメリカメジャーリーグではセントルイス・カージナルスなどで活躍。オールスターやワールドシリーズにも出場した名選手だった。
1967年、南海ホークスに入団し内野手(二塁手)として3シーズンプレー。1970年から野村克也監督のもとでヘッドコーチを務め、1973年のパシフィック・リーグ優勝に貢献。1977年オフ、野村監督の解任に伴い南海を退団。

広島の守備兼ヘッドコーチを経て、1979年阪神タイガース監督に就任。「考える野球(シンキング・ベースボール)」を取り入れた采配が期待された。しかし1980年、大型新人岡田彰布を使えというフロントと、まずは二軍から、というブレイザーとの間に確執がうまれる。ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したことから、シーズン途中の5月14日で退任。1981年、1982年には古巣・南海の監督を務めた。それぞれ5位、6位に終わっている。2005年4月13日死去。73歳だった。
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by nob_io | 2005-04-13 21:04 | 野球関連2005 |
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皆川睦雄(69歳)
みながわ・むつお。南海ブレーブス黄金期を支え、「最後の30勝投手」と呼ばれた投手。1954年、米沢西高から南海に入団(同期に野村克也)。3年目の1956年に11勝をあげるも肩を痛め、柚木進コーチに勧められオーバースローからサイドスローに転向。1957年18勝、1958年17勝、1962年にはチームトップの19勝と安定した成績を残す。

サイドスローに転向した1956年のある試合で下位打線を相手に投げていたとき8番打者のところでカウントを0-3にしてしまった。皆川はここで「どうせ打ってこないだろう」とど真ん中に軽く直球を放ったが、主審の二出川延明に「ボール」と判定された。当然皆川はど真ん中なのになぜボールなのかと抗議したところ、「気持ちが入っていないからボールだ!」と一喝された。なんだそりゃ。これに感銘を受けた皆川は以降一球たりとも手を抜かないようになり、チームの中心選手へと成長したんだそうだ。Wikipediaにそう書いてある。美談かも知れないが、しかし・・・。

宅和本司、中村大成、杉浦忠ら伝説的な活躍をしたエースの陰に隠れながら、横手からのシンカー、スライダーと制球力を武器に長らく2番手投手として投手陣を支えた。そんな皆川が脚光を浴びたのが1968年。31勝、防御率1.61で最多勝利と最優秀防御率に輝く。以後、年間30勝投手は誕生していない。同年200勝も達成。1971年引退。通算成績は759試合の登板で、221勝139敗、防御率2.42。221勝はホークス(南海、ダイエー、ソフトバンク)の球団記録。

1976-1977年阪神投手コーチ、1986-1988年巨人投手コーチ、1991ー1992年近鉄の投手コーチを歴任。その後は野球評論家の傍ら、少年野球の指導にも力を入れた。2005年2月6日、敗血症のため死去、69歳。2005年11月3日には米沢市市民栄誉賞を、2006年3月15日には山形県県民栄誉賞を受け、同年夏には米沢市営野球場(上杉スタジアム)の愛称が「皆川球場」に改称された。
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by nob_io | 2005-02-06 21:07 | 野球関連2005 |
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