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カテゴリ:野球関連2006( 9 )
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ジョー・ニークロ(61歳)
Joseph Franklin Niekro。アメリカ・オハイオ州マーティンス・フェリー出身の投手で、フィル・ニークロの弟、ランス・ニークロの父。兄同様ナックルボーラーとして有名。シカゴ・カブス、サンディエゴ・パドレス、デトロイト・タイガース、アトランタ・ブレーブスを渡り歩き、1975年、ヒューストン・アストロズに移籍。32歳にして開花、1977年にはリリーフを含めて13勝8敗の好成績をあげ、1978年にはほぼ先発に専念して14勝。79年には21勝をあげ、兄フィルと並んでナ・リーグ最多勝をあげる。80年にも20勝を挙げ、球団初の2年連続20勝投手となった。

ミネソタ・ツインズ所属の1987年8月3日、マウンドでポケットに爪ヤスリを入れていたのを発見され10試合の出場停止となった。ダグアウトで爪を磨いていたと主張したが認められなかった。この年ツインズはワールドシリーズ制覇を果たし、ジョーもキャリアで唯一、そして兄の果たせなかったワールドシリーズでの登板を果たした。デビューから21年目でのワールドシリーズ初登板は、現在でもメジャー記録である。翌1988年5月4日にツインズを解雇され、そのまま引退した。2006年10月27日、脳動脈瘤のためフロリダで逝去。61歳。
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by nob_io | 2006-10-27 23:11 | 野球関連2006 |
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高橋明(64歳)
たかはし・あきら。防府高校卒業後の1961年、巨人に入団。1963年の日本シリーズでは最優秀投手賞に輝き、翌年には開幕投手を務めるなど主力投手として活躍。1971年に巨人・川上哲治監督と西鉄・稲尾和久監督との間で「投手がいなくて困っているだろう」という理由で西鉄ライオンズに移籍が決まった。事実、西鉄移籍1年目には38勝しか挙げられなかったチームの中で14勝を挙げ、チームの勝ち頭となった。1972年限りで現役引退。2006年7月31日、胃癌のため東京都内の病院で死去。64歳。
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by nob_io | 2006-07-31 23:10 | 野球関連2006 |
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長谷川良平(76歳)
はせがわ・りょうへい。愛知県半田商工学校を卒業後、4つのノンプロチームを経て1950年、広島カープ設立とともにテスト生として入団。1年目にいきなり15勝を挙げると、以降8年連続で2桁勝利を記録し、1955年には30勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。毎年最下位争いを繰り広げ、資金難から何度となく存続の危機に瀕していた厳しいチーム事情の中、1957年までの8年間でチーム全体の勝ち星の4割以上を一人で挙げるという大活躍を見せた。黎明期の広島を代表するエースピッチャーであり、長谷川がいなければ現在のカープは存在していなかったと言っても過言ではない。身長167cmという野球選手にしては小柄な体格から、『小さな大投手』と呼ばれた。

多彩な変化球を操ると言われたが、実際の球種はストレートとカーブ、縦横二種類のシュートボールのみで、これらを上手、横手、下手から緩急巧みに投げ分けた。特にシュートの切れ味は群を抜いており、来るとわかっていても当てることができず、どうにか当ててもバットを折ることがよくあった。相手打者から「頼むからシュートを投げないでくれ、バット代がかかって仕方がない」と真顔で頼み込まれたという逸話が残っている。国鉄スワローズの金田正一とは何度となく息詰る投手戦を演じ、数々の名勝負は現在でもファンの間で語り草となっている。1963年限りで現役を引退。通算197勝は、後輩の北別府学(213勝)に抜かれるまでは球団記録であった。

引退翌年の1964年から広島の投手コーチに就任し、1965年途中からは白石勝巳の後を受けて監督を務めた。在任期間中は、安仁屋宗八や外木場義郎ら後の広島を支える若手を育成し、1967年に退任。翌1968年、中日投手コーチに就任。杉下茂・水原茂監督のもと、近藤貞雄コーチらと共に小川健太郎や星野仙一、松本幸行らを指導した。その後再び広島の投手コーチ・ヘッドコーチ、その後RCC野球解説者、日刊スポーツ野球評論家。解説業を退いた後は球界から遠ざかり、ごくたまに広島ローカルのテレビ番組で顔を見せる以外、公の場に姿を現すことはなかった。2006年7月29日、肺炎のため広島市内の病院で死去。76歳。

余談だが広島球団では長谷川の後に安仁屋宗八、外木場義郎、北別府学、佐々岡真司と漢字三文字姓の投手が代々活躍していることから、現在でも「カープの三文字投手はエースの証」と言われている。
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by nob_io | 2006-07-29 23:08 | 野球関連2006 |
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宮田征典(66歳)
「8時半の男」みやた・ゆきのり。群馬県内随一の進学校・群馬県立前橋高等学校から日本大学を経て1962年に読売ジャイアンツに入団。心臓に疾患を持つために先発投手として長いイニングを投げることが出来ず、当時の藤田元司投手コーチの勧めもありリリーフ投手へ転向。当時はセーブ制度がなく先発中心の時代で、リリーフ投手が登板する試合は敗戦試合であることが往々にしてあったが、宮田は持ち前の伸びのある直球、ドロップの握りを微妙に変えて様々に変化させる「ミヤボール」、そして正確な制球力で同点試合・勝利試合に多く登板。

1965年は69試合に登板し20勝(うちリリーフで19勝)、投球回数164回1/3。セーブ制度を当てはめて集計すると22セーブ(41SP)をあげた計算になり、かつ1試合の平均投球回数は2.38回と現在の抑え投手とは比較にならない活躍をみせた。400勝を目指す現役晩年の金田正一の後を受けてロングリリーフすることも多く、登板イニング数が伸びた一因と思われる。後楽園球場の場内アナウンスを担当していた務台鶴が、宮田が登板する時間帯が午後8時30分前後であることに気づき、「宮田さんは、よく8時半頃に登板するのね」と発言したことがきっかけになり、「8時半の男」と呼ばれた。

心臓疾患のために1球ごとの間合いを長く取って投げるのが特徴であった。このことは打者のタイミングを外すのに効果的であったが、他球団などからは宮田の投球は公認野球規則の8.04[1]に該当していると批判が上がった。

1966年以後は肩・肘を相次いで故障。肝機能障害も患い1969年限りで引退。引退後はコーチとして卓越した投球理論や育成法が評価され、巨人以外でも日本ハム、西武、中日などの球団でも長く投手コーチを務める。 西武コーチ時代には当時若手であった工藤公康を指導し、球速を10キロアップさせエースへと成長させた。巨人では入団したてでプロの壁にぶち当たっていた桑田真澄を立ち直らせたほか、宮田の教え子として巨人・上原浩治、中日・川上憲伸の両球団のエースがルーキー時代に指導を受けた。中日では、投球に安定感が無かった野口茂樹を指導。その後野口は2桁勝利を重ね、中日のエースに成長した。

解説者としても解りやすい解説に定評があり、またよく球場へ出向き、自分の教え子達にアドバイスを行う姿も見受けられた。引退後、郷里の群馬県の赤城山麓に練習所を構え、少年野球の指導を行うなど、野球の発展にも力を尽くした。2006年7月13日午後2時11分、肝不全のため前橋市内の病院で死去。享年66。「8時半の男」は、宮田本人も大変気に入っていたネーミングであり、求められるサインには必ず「8時半の男」と記していたという。コーチ時代はどの球団でも背番号「85」をつけていたがこれは宮田の希望で「8時半」の意味を含んでいた。
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by nob_io | 2006-07-13 23:07 | 野球関連2006 |
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宮本四郎(54歳)
みやもと・しろう。投手。三重高等学校、中京大学を経て1975年ドラフト2位で大洋ホエールズに入団。主に左の中継ぎとして活躍。その後阪急ブレーブス、阪神タイガースに移り、1987年に現役引退。引退後は阪神の打撃投手、スカウトを務め、2004年からは横浜のスカウトを務めていた。2006年6月19日、宿泊先の愛知県名古屋市内のホテルで脳内出血のため急逝。54歳だった。
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by nob_io | 2006-06-20 23:04 | 野球関連2006 |
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三宅宅三(85歳)
みやけ・たくぞう。外野手。岡山県倉敷市出身。玉島中(現・玉島商)では砲丸投げで全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。1957年に引退。大毎・東京・ロッテで打撃コーチ、スコアラー、スカウト、1987年から1996年まで中日で編成本部顧問を務めた。2006年4月16日、呼吸器不全のため東京都世田谷区の病院で死去。85歳。2005年の古巣・ロッテの日本一を見届けての死だった。
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by nob_io | 2006-04-16 23:04 | 野球関連2006 |
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藤田元司(74歳)
ふじた・もとし。愛媛県新居浜市出身。旧制愛媛県立新居浜中学校→愛媛県立西条北高等学校から慶應義塾大学へ進学、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に六大学リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。六大学野球リーグでは通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録。その後日本石油を経て、1957年、大学の先輩である水原茂監督の誘いで巨人軍(讀賣ジャイアンツ)に入団。入団1年目から17勝をあげ新人王に輝くと、1958年には29勝、1959年には27勝をあげてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得した。

しかし日本シリーズでは度重なる力投を見せるも報われず、特に1958年の日本シリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久を上回る防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく2敗を喫し、その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、元司の音読みに掛けて「ガンディー」とも呼ばれた。その後、第2次黄金時代を支えた別所毅彦、与那嶺要、藤尾茂、広岡達朗らの高齢化が進んだ時期、登板過多で肩を故障してしまう。60年以降は成績が急降下し、64年に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったこともあり、現役生活は8年にとどまった。

現役引退後は川上哲治監督の下で投手コーチに就任し、堀内恒夫や高橋一三を育成して巨人軍のV9時代を支えたが、1973年シーズン途中に投手陣不振の責任を取らされて二軍コーチに降格され、さらにスカウトへ異動させられるなどの辛酸も味わった。その後、大洋ホエールズヘッドコーチ、NHK野球解説者を経て1981年、長嶋茂雄監督解任を受けて巨人軍監督に就任。「長嶋を窓際に追いやった男」という世間の強烈な逆風の中、就任1年目にしてリーグ優勝を果たし、同年の日本シリーズでは、パ・リーグ覇者の日本ハムファイターズを破り、1973年以来となる日本一に導いた。1983年にもリーグ優勝をなしとげたが日本シリーズで西武との激闘の末に3勝4敗で敗れ、助監督を務めていた王貞治に譲る形で勇退。

1988年シーズン終了後、王貞治解任を受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「年寄りの老い先短い願いをきいてくれ」と懇願され、2度目の監督に就任。同年の日本シリーズで近鉄バファローズを下して日本一に輝くと、翌1990年にはリーグ2連覇をなしとげた。1992年限りで勇退した。



指導者として優れた人心掌握術・育成術を持っていた。巨人軍コーチ時代には渡辺秀武を再生させ、第1次監督時代には江川卓・西本聖・定岡正二、第2次監督時代には斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄の先発三本柱を確立させ、投手陣の整備をおこなった。また野手では、川相昌弘・緒方耕一の積極的な起用、駒田徳広・岡崎郁の“名脇役”としての確立等「磨けば光る逸材」を輝かせる事にかけては定評があった。監督勇退後はNHKで野球解説者を務める傍ら、別所毅彦の死去を受け1999年から2003年まで巨人軍OB会会長を、2005年には四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツアドバイザリースタッフを務めた。2000年頃から体調を崩し、NHKでの解説の仕事も固辞して療養していたが、2006年2月9日午後6時40分、心不全のため東京都世田谷区内の病院で死去した。74歳没。現役時代の颯爽とした姿やスマートな物腰、そして決して選手を責めず常に回りに気遣いを見せるあたたかな人柄から「球界の紳士」と呼ばれていた。
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by nob_io | 2006-02-09 23:02 | 野球関連2006 |
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高木時夫(68歳)
たかぎ・ときお。浦和高校、日本大学、富士鉄釜石(現在の新日鉄釜石)を経て1961年中日ドラゴンズに入団。主に木俣達彦の控え捕手として活躍。1973年に引退後は中日のコーチ、スカウトを務めた。当時は無名だった山本昌をスカウトしたことで知られる。阪神タイガースでは星野仙一監督時代、球団広報を務めていた。2006年1月23日、原発性肺癌のため名古屋市内の病院で死去。68歳。
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by nob_io | 2006-01-23 23:01 | 野球関連2006 |
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近藤貞雄(80歳)
こんどう・さだお。愛知県岡崎市出身。内野手→投手。旧制愛知県立岡崎中学校から旧制法政大学を経て1943年に西鉄軍に入団。強打の一塁手として鳴らしたが、深刻な投手不足のチーム事情から石本秀一監督は、近藤の長身からの速球を見出し投手にコンバートした。同年、西鉄は資金難のため1年で解散に追い込まれてしまう。折しも徴兵による選手不足に悩む東京巨人軍の藤本英雄監督から申し出があり、1944年、黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した(他球団から巨人に移籍した最初の選手となる)。登板しない試合には野手として出場したこともある。プロ野球が再開された2年後の1946年に大車輪の活躍で23勝をあげるが、秋季キャンプで滞在していた愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープを避けて側溝に転落。そこにあったガラス片で右手中指を負傷してしまう。

戦後混乱期にあって迅速な治療を受けられず神経に深い傷を残してしまい(右手中指は第2関節から先が曲がったまま、元に戻ることはなかった)、満足な投球ができなくなり巨人を自由契約になる。同僚だった千葉茂は「近藤の負傷が『別所引き抜き事件』の遠因になった」と評する。巨人時代の同僚で中日に移籍していた宮下信明が中日の杉浦清監督に掛け合い、近藤は中日に移籍。移籍1年目の1948年、独特の3本指で投げる「疑似チェンジアップ(パームボール)」を開発し同年6勝、翌1949年7勝、1950年10勝と活躍した。天知俊一監督が復帰した1954年、チームがリーグ優勝を果たす。同年限りで引退。

1955年から1962年(野口〜第3次天知〜第1次杉下〜濃人監督時代)、1964年から1968年(第2次杉浦〜西沢〜第2次杉下監督時代)まで中日投手コーチを務めた。ルーキーイヤーから2年連続30勝をあげながら連投に次ぐ連投で肩を壊し、事実上投手生命を失った権藤博の起用法に対する反省から、先発-中継ぎ-抑えの分業制を提唱。「甲子園準優勝投手」の鳴り物入りで入団しながら打線の援護に恵まれず、不振をかこっていた板東英二をリリーフエースとして起用することで実践した。板東は期待に応えて活躍。巨人・中尾碩志投手コーチとの論争などを経て近藤の「投手分業制」は球界に定着した。その後は濃人の誘いで1969年〜1971年にロッテ投手コーチ。与那嶺要監督が就任した1972年、古巣中日にヘッドコーチ兼投手コーチとして再度招かれ1974年のリーグ優勝に貢献した。1976年退任。

1981年、中利夫監督の後任として中日監督に就任。戦力外になりかけていた平野謙の才能を見抜きレギュラー野手に成長させ、2年目の若手投手牛島和彦を抑え投手に抜擢し、翌1982年にリーグ優勝を果たした。攻撃と守備でガラリとメンバーを代えるところから「近藤アメフト野球」「ツープラトン野球」とも呼ばれたが、現在のプロ野球では当たり前の戦術とされる「守備固め」の先駆けであった。1983年限りで退任。

1985年大洋監督に就任。高木豊、屋鋪要、加藤博一の俊足打者3人を1-3番に据え「スーパーカートリオ」と銘打った。1986年退任。1989年から1991年まで日本ハム監督。これを最後に現場を退いた。以降は中部日本放送野球解説者・中日スポーツ野球評論家を務める。2001年にはプロ野球マスターズリーグ「名古屋80D'sers」初代監督となり、翌2002年まで務めた。この時期、江夏豊をワンアウトで降板させた際、ある女性記者から「もう少しできたんじゃないですか」と言われたことに対し「偉そうに評論家やってんじゃない!」と激怒し、晩年も血気盛んな気質を見せた。血気盛んではあってもニックネームは「ダンディ」。2006年1月2日午前9時22分、都内の病院で呼吸不全のため死去。80歳。
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by nob_io | 2006-01-02 23:00 | 野球関連2006 |
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