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カテゴリ:野球関連2007( 27 )
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小野忠彦(74歳)
おの・ただひこ。香川県出身。全日本大学野球連盟専務理事。関西学生野球連盟理事長。2007年12月25日、胃癌による多臓器不全のため東京都文京区の病院で死去。74歳。
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by nob_io | 2007-12-25 13:45 | 野球関連2007 |
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藤井道夫(85歳)
ふじい・みちお。外野手。高松商業学校時代に甲子園に出場。華北電電、常磐製紙を経て1950年阪急ブレーブスに入団し、俊足巧打の1番打者として活躍した(実働8年)。引退後は阪急スカウトとして数多くの選手の獲得に尽力し、編成部長も努めた。2007年12月23日午後3時40分、肺炎のため兵庫県西宮市内の病院で死去。85歳。
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by nob_io | 2007-12-23 13:41 | 野球関連2007 |
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島野育夫(63歳)
しまの・いくお。栃木県宇都宮市出身。作新学院高校から社会人野球の明電舎に進み、1963年に中日ドラゴンズに入団。1968年シーズン途中に南海ホークスに移籍。野村克也選手兼任監督のもとで頭角を現し、1973年には61盗塁を記録するなど俊足巧打の一番打者、守ってはこの年のゴールデングラブ賞を受賞する強肩外野手として活躍、この年の南海の優勝に貢献する。翌年・翌々年もゴールデングラブ賞に輝き、中心選手としてチームを牽引した。1976年に阪神タイガースに移籍し、1980年をもって現役引退。

1982-84年、阪神の守備・走塁コーチ。1986年、中日のコーチに就任。翌1987年に星野仙一が監督に就き、そこから星野とともに活動する機会が増える。現役時代は後輩の星野仙一を呼び捨てにしていたが、星野は2歳年上の島野を「島ちゃん」と呼ぶ一方、監督とコーチという関係になった時から島野は「監督」と呼び敬語を使うようになり、それは終生変わらなかったという。落合博満は現役引退後の著書で、中日が優勝を果たした1988年シーズン中、コーチ陣では島野だけが選手の相談役となり、起用法などの不満を聞いてやっていたと綴っている。鬼軍曹と呼ばれていたが、選手たちからも信頼されていた。相手の癖を盗む特技を生かし、1992年、阪神のコーチに復帰。1995年、中日に二軍監督として復帰。この年には休養した高木守道、徳武定祐の後を受け監督代行を務める。1999年の第2次星野政権のリーグ優勝に貢献、球界屈指の名参謀としてその名を轟かせる。

2001年オフ、阪神の監督に招聘された星野仙一に従う形で阪神にコーチとして復帰。この時、島野は中日の二軍監督として残留することになっており、すでに発表済みでもあったが、それを一方的に破棄する格好になった。中日側からは批判の声があがったが、星野は「オレと島ちゃんはどんな名刀でも切り裂くことができない」と言い、非はこちらにあるが、勘弁してくれと中日サイドを説得したという。星野の妻からの信頼も厚く、中日時代に交わした「主人を日本一にしてあげてください」という約束を守るために星野に追随して阪神に移籍したとも言われる。2003年に阪神がリーグ優勝を果たすのに大きく貢献した。当時健康問題を抱えていた星野が試合中にベンチで休み、それに代わってヘッドコーチの島野が実質上の采配をふるったこともあった。翌2004年、星野の勇退とともにコーチを辞任しフロント入りしたが、2005年に久万俊二郎オーナーの鶴の一声で一軍総合コーチに復帰した。2006年には二軍監督に就任するが、4月26日から胃潰瘍による長期入院を余儀なくされ、シーズン中は立石充男二軍打撃兼守備コーチが監督代行を務めた。2007年、現場から離れ総合特命コーチに就任。12月15日、胃癌のため兵庫県西宮市の病院で死去した。63歳。亡くなる数か月前、神戸・三宮に創作洋食の店をオープンし、オーナーとして経営していた。島野が亡くなってからは夫人が店長兼オーナーを務めている。
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by nob_io | 2007-12-15 13:36 | 野球関連2007 |
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井上忠行(72歳)
いのうえ・ただゆき。プロ野球選手、プロ野球審判員。福岡県三井郡出身。八女工業高校卒業後、門司鉄道管理局を経て1957年内野手として西鉄ライオンズに入団。主に中西太の後釜として一塁手・三塁手の控えをつとめ、1964年まで現役を続けた。現役時代の通算記録は、実働8年で584試合に出場し、945打数170安打の.180、18本塁打、71打点、3盗塁。

その後セ・リーグ審判部に入局、関西審判部の中堅として長年活躍した。審判員としての出場記録は通算3263試合、日本シリーズ6回、オールスター6回。引退前年の1996年には、61歳という高齢ながらオールスター・日本シリーズW出場を果たしている。有名な試合としては、1987年中日の近藤真市によるルーキー初登板・初先発ノーヒットノーラン達成試合で球審をしていた。2007年12月15日、沖縄でのマスターズリーグの試合後、飛行機で帰途の際に急性心筋梗塞を発症し急逝。72歳。
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by nob_io | 2007-12-15 13:22 | 野球関連2007 |
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花井悠(75歳)
はない・ゆう。岐阜高校で夏の甲子園大会に投手で出場し準優勝。慶應義塾大学→日本石油野球部を経て、1957年、西鉄ライオンズに入団し、当時黄金時代を築いたチームの主軸打者として活躍した。左投左打、外野手。1964年引退。現役引退後は西鉄に打撃コーチとしてしばらく残留、退団後は解説者、コメンテーターとして活躍。2007年12月14日、敗血症のため死去。75歳。
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by nob_io | 2007-12-14 13:18 | 野球関連2007 |
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稲尾和久(70歳)
「鉄腕」「神様、仏様、稲尾様」いなお・かずひさ。投手、監督、野球解説者。現役時代の背番号は24。大分県別府市北浜出身。七人兄弟の末っ子に生まれる。漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃からよく海に出た。中部中学時代のポジションはキャッチャー。 1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団。高校時代は全く無名で、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言し、口の悪い豊田泰光は「手動式練習機」とも呼んでいた(但し、豊田泰光は週刊ベースボールの連載コラム(稲尾追悼回)にて「稲尾が打撃投手としてとられたというのは嘘。三原監督は早くから稲尾に注目していた」と述べてもいる)。

1年目から21勝6敗、防御率1.06(2007年現在パリーグ記録)の好成績を残し、最優秀防御率と新人王を獲得した(ちなみにこの年、新人にして154試合全試合にフルイニング出場し180安打を記録したにもかかわらず、稲尾との直接対戦成績(18打数1安打)が決め手となり新人王になれなかったのが、後にキャスターとして活躍する佐々木信也)。

2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、「野武士軍団」西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。

1958年の日本シリーズで読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾を三たび先発させて勝利すると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという獅子奮迅の活躍を見せ、優勝時の地元新聞の見出し「神様、仏様、稲尾様」は、今なお稲尾の枕詞となっている。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。

デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録(57年)、シーズン42勝/同353奪三振/同78登板(いずれも61年)、日本シリーズ通算11勝、MVP2回、最多勝4回、最優秀防御率5回、ベストナイン5回など、鉄腕の名をほしいままにした。当時の「エース」と呼ばれる投手は、先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前だった。それに加え、三原脩監督の投手起用法が良くも悪くも実力者偏重であったため、頭角を現した後の稲尾は登板数が急激に増加した。米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても登板試合数が極端に多い。1962年8月25日、通算200勝を達成。25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録である。

ある大学が「プロの投手の集中力と精神力」を調査するため、稲尾を含む西鉄投手陣に、捕手の構えるところに正確に、続けてボールを投げ込むことができるかどうか、という実験を依頼した。稲尾は外角低め、外角高め、内角低め…と、何十球も連続して捕手の構えるところに、少しもミットを動かすことなくボールを投げ込み続けた。この制球力を見て他の投手は「やっていられるか」と呆れ、実験の参加を辞退した。また、リリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。

しかし、1964年にはそれまでの酷使がたたって肩を故障。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。稲尾の早期引退が先発ローテーション制度が広まるきっかけになったと言われるほど、当時の衝撃は強いものがあった。



引退翌年の1970年からライオンズの監督に就任。32歳での監督就任は専任監督として最年少である。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却される(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサー)という苦境の中で指揮をとり、三年連続最下位になるなど散々な成績に終わり1974年限りで退任。ただし後に大投手となる東尾修や加藤初を酷使と批判されながらも若手時代に積極的に起用し後の活躍の礎を構築した。

1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日投手コーチ。1984年よりロッテオリオンズ監督。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。以降は解説者、プロ野球マスターズリーグ福岡ドンタクズ監督、沢村賞選考委員(のちのに委員長)など。2007年11月13日午前1時21分、悪性腫瘍のため死去。70歳。
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by nob_io | 2007-11-13 13:08 | 野球関連2007 |
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大津守(76歳)
おおつ・まもる。福岡県出身、投手。明善高校から西日本鉄道を経て、1950年に球団結成したばかりの西鉄クリッパーズに入団。1952年にはリーグ最多登板の活躍をして主戦投手となり、1954年には18勝を挙げてチームの初優勝に貢献、中日との日本シリーズでも第6戦で勝利投手となる。翌年は近鉄戦でノーヒットノーランをマークするなど、河村英文とともにチーム最多の21勝をマーク。2007年10月2日、心不全のため福岡市東区の病院で死去。76歳。
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by nob_io | 2007-10-02 05:43 | 野球関連2007 |
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上福元勤(41歳)
かみふくもと・つとむ。三塁手。1982年に早稲田実業で春夏連続で甲子園に出場。1984年読売ジャイアンツに入団、3年間在籍したが、一軍出場は無く1986年に引退した。その後は、マスターズリーグで札幌アンビシャスに所属して活躍していたが、2007年9月29日に直腸癌のため死去。まだ41歳という若さだった。
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by nob_io | 2007-09-29 05:34 | 野球関連2007 |
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長嶋亜希子(64歳)
ながしま・あきこ。東京都出身。英語やフランス語などに堪能で、64年の東京五輪でコンパニオンを務め、スポーツ新聞の企画で長嶋茂雄と対談。長嶋が一目惚れし、猛アタックを受け翌64年結婚。元プロ野球選手の一茂氏ら2男2女をもうけた。04年3月に長嶋氏が脳梗塞で倒れた際にはリハビリを支えた。2007年09月18日、心不全のため都内の病院で死去。64歳。
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by nob_io | 2007-09-18 05:27 | 野球関連2007 |
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中部慶次郎(74歳)
なかべ・けいじろう。山口県出身。元大洋漁業〈現マルハ〉社長。90年から02年まで大洋ホエールズ、横浜ベイスターズのオーナーを務めた。2007年9月17日、肺癌のため東京都内の病院で死去。74歳。
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by nob_io | 2007-09-17 05:26 | 野球関連2007 |
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