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2005年の物故者
Wikipedia「訃報 2005年」よりコピペ。

2月6日 - 皆川睦雄(69歳/敗血症)「最後の30勝投手」、元南海ホークス
4月13日 - ドン・ブレイザー(73歳)元プロ野球選手・監督
4月27日 - 大社義規(90歳/心不全)日本ハム創業者・日本ハム球団初代オーナー
5月12日 - 田中 尊(69歳/肺炎)元プロ野球選手・コーチ
9月6日 - 宮下信明(81歳/呼吸不全)元プロ野球選手
9月19日 - 中内功(83歳/脳硬塞)ダイエー創業者、流通科学大学創設者・学園長
11月7日 - 今津光男(67歳/肺癌)元プロ野球選手 (中日ドラゴンズ・広島東洋カープ・阪急ブレーブス)、コーチ
12月15日 - 仰木彬(70歳/肺癌)前オリックス・バファローズ監督

■以下、非野球関連

1月8日 - 小森和子(95歳/呼吸不全)映画評論家
1月31日 - 中尊寺ゆつこ(42歳/S状結腸癌)漫画家
2月10日 - アーサー・ミラー(89歳/癌)劇作家
2月19日 - 岡本喜八(81歳/食道癌)映画監督
2月22日 - 羽生未来(30歳/肺癌)タレント
3月10日 - 照屋林助(75歳/肺炎)音楽家
3月10日 - 星ルイス(56歳/肺癌)漫才師
3月22日 - 丹下健三(91歳/心不全)建築家
4月3日 - 岡田史子(55歳)漫画家
4月16日 - 高田 渡(56歳/心不全)フォークソング歌手
4月22日 - ポール牧(63歳/自宅マンションから投身自殺)タレント・コメディアン
4月25日 - 安部 英(88歳)元帝京大学副学長
5月23日 - 石田徹也(31歳/踏切事故)画家
5月24日 - 石津謙介(93歳/肺炎)ファッションデザイナー・「VAN」創設者
5月30日 - 貴ノ花健士/二子山満(55歳/口腔底癌)日本相撲協会事業部長
6月10日 - 倉橋由美子(69歳/拡張型心筋症)小説家
6月10日 - 永島慎二(67歳)漫画家
6月24日 - 加藤舜陶(88歳)陶芸家
6月25日 - 長 新太(77歳/中咽頭癌)絵本作家
7月1日 - 萩原葉子(84歳)作家
7月1日 - 天野 滋(52歳/脳内出血)歌手、ニュー・サディスティック・ピンク(NSP)リーダー
7月8日 - 串田孫一(89歳)哲学者、随筆家
7月11日 - 橋本真也(39歳/脳幹出血)プロレスラー
7月22日 - 杉浦日向子(46歳/下咽頭癌)漫画家、江戸風俗研究家
8月2日 - 村上信夫(84歳/心不全)帝国ホテル元総料理長
9月7日 - 見沢知廉(56歳/自宅マンション8階から転落死)作家・新右翼活動家
10月20日 - ジャン=ミッシェル・フォロン(71歳)ベルギーの画家・彫刻家
11月6日 - 本田美奈子(38歳/急性骨髄性白血病)歌手・ミュージカル女優
11月26日 - 宮城音弥(95歳)東京工業大学名誉教授、心理学者
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by nob_io | 2005-12-31 21:44 | リスト |
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仰木彬(70歳)
おおぎ・あきら。1953年、東筑高校全日制課程商業科3年の時に全国高等学校野球選手権大会に投手として出場し、翌1954年西鉄に入団。期待のルーキーだったが、フリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた三原脩監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」と、その場でセカンドにコンバートされた。三原は仰木の投げる球の回転があまりにも素直であると感じ、正二塁手の宮崎要が37歳だった事も考慮し転向を命じたという。急造内野手にも関わらず1年目からレギュラーに定着、以降長きに渡り中西太・豊田泰光と共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。また当時から三原とは野球理論について議論を交わし、この時の経験が後の監督時代に芽を吹くことになる。1967年限りで現役を引退し、その後は2年間西鉄のコーチを務めた。

1970年、三原脩が監督を務めていた近鉄の守備走塁コーチに就任。1984年、ヘッドコーチ昇格。1988年、岡本伊三美監督の後任として近鉄監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末「10.19」で惜しくもリーグ優勝を逃したものの、翌1989年にはオリックス、西武との三つ巴の接戦を制し、2位オリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)でチームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年読売ジャイアンツを相手に行われた日本シリーズでは、語り草となる3連勝後まさかの4連敗を喫し、チーム初の日本一をあと一歩のところで逃す。その後も毎年Aクラスという成績を残し、野茂英雄や赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。

見物人の論理「早熟の選手・遅咲きの指導者〜仰木彬氏を悼む。」より引用:

 35歳で近鉄入りしてから、実に18年もの間、仰木は近鉄のコーチを勤めていた。この間、監督は三原から岩本尭、西本幸雄、関口清治、岡本伊三美と移り変わり、仰木自身も二軍に回った時期もあるが、同じ球団の中でずっとコーチを務めてきた。
 指導者として、少なくとも普通の野球ファンから注目されるような存在ではなかった。栄光の西鉄黄金時代の一員として現役時代のエピソードが語られることはあっても、コーチとしての手腕が話題になることなど皆無だったといってよい。
 だから、監督になった途端にさまざまな奇策を繰り出し、選手の力を引き出して成績を向上させたことは、大いなるサプライズだった。仰木が名監督と呼ばれるようになった後、西本幸雄が仰木のことを問われて、びっくりした、自分の下でコーチをしていた時からは想像もつかない、という意味のコメントをしたのを読んだ記憶がある。

1991年〜1992年と2年連続西武との優勝争いに破れ、1992年をもって近鉄監督を勇退。1年間の解説者生活を経て1994年、オリックスの監督に就任。二軍暮らしを続けていたイチロー、田口壮の素質を開花させ、就任2年目の1995年、チームを初(前身の阪急時代を含めると1984年以来11年ぶり)のリーグ優勝に導く。日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルト相手に1勝4敗でまたも日本一を逃す。翌1996年にもリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる巨人と対戦。4勝1敗で勝利し、監督として初の日本一に輝いた。その後、リーグ優勝はなかったが1999年までAクラスをキープし続けた。2001年限りで監督を勇退。様々な奇策による采配は、恩師三原脩に重ねて「仰木マジック」と呼ばれた。

ふたたび解説者を経て2005年、近鉄との合併によって誕生した新生オリックス・バファローズの監督としてみたび監督復帰。3年連続最下位に沈んでいたオリックスを4位に浮上させた。シーズンオフ、球団から続投要請を受けるも高齢を理由に勇退。球団のシニア・アドバイザー(SA)に就任する。しかし直後に体調が悪化し入院、勇退からわずか2ヶ月足らずで死去した。



仰木は1990年代半ばに肺癌が発覚、闘病を続けていたが、誰にもそれを口外せず、「グラウンドで死ねたらオレは本望」と、病をおして1年間チームを指揮した。しかし後半戦は居眠りや、ベンチに腰掛けたまま動かないシーンも目立ち、関係者の中には監督の激務を懸念して勇退を勧める者も少なくなかった。シーズン後半には、球場の階段を上ることすらできず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りしていた。

現役時代から遊び人として知られ、「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」がモットーの三原監督から「仰木と豊田だけは制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。監督になってからも、『ニュースステーション』出演時に小宮悦子アナウンサーを本気で口説いていたというエピソードもあるなど、現役時代と変わらなかった。西本幸雄監督の辞任後、毎年のように近鉄の次期監督候補として名前が挙がりながら、結局18年もコーチを続けることになったのは、そういった仰木の私生活を球団首脳が不安視したからだと言われている。また監督時代には、スタッフミーティングで「門限を設定して、破った者から罰金を徴収してはどうか」と議論に上がった際、「そうなったら俺が一番困る」と真っ先に反対したとも言われている。2005年12月15日午後4時10分、肺ガンによる呼吸不全のため、福岡県内の病院で死去、70歳。
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by nob_io | 2005-12-15 21:14 | 野球関連2005 |
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