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藤田元司(74歳)
ふじた・もとし。愛媛県新居浜市出身。旧制愛媛県立新居浜中学校→愛媛県立西条北高等学校から慶應義塾大学へ進学、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に六大学リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。六大学野球リーグでは通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録。その後日本石油を経て、1957年、大学の先輩である水原茂監督の誘いで巨人軍(讀賣ジャイアンツ)に入団。入団1年目から17勝をあげ新人王に輝くと、1958年には29勝、1959年には27勝をあげてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得した。

しかし日本シリーズでは度重なる力投を見せるも報われず、特に1958年の日本シリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久を上回る防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく2敗を喫し、その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、元司の音読みに掛けて「ガンディー」とも呼ばれた。その後、第2次黄金時代を支えた別所毅彦、与那嶺要、藤尾茂、広岡達朗らの高齢化が進んだ時期、登板過多で肩を故障してしまう。60年以降は成績が急降下し、64年に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったこともあり、現役生活は8年にとどまった。

現役引退後は川上哲治監督の下で投手コーチに就任し、堀内恒夫や高橋一三を育成して巨人軍のV9時代を支えたが、1973年シーズン途中に投手陣不振の責任を取らされて二軍コーチに降格され、さらにスカウトへ異動させられるなどの辛酸も味わった。その後、大洋ホエールズヘッドコーチ、NHK野球解説者を経て1981年、長嶋茂雄監督解任を受けて巨人軍監督に就任。「長嶋を窓際に追いやった男」という世間の強烈な逆風の中、就任1年目にしてリーグ優勝を果たし、同年の日本シリーズでは、パ・リーグ覇者の日本ハムファイターズを破り、1973年以来となる日本一に導いた。1983年にもリーグ優勝をなしとげたが日本シリーズで西武との激闘の末に3勝4敗で敗れ、助監督を務めていた王貞治に譲る形で勇退。

1988年シーズン終了後、王貞治解任を受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「年寄りの老い先短い願いをきいてくれ」と懇願され、2度目の監督に就任。同年の日本シリーズで近鉄バファローズを下して日本一に輝くと、翌1990年にはリーグ2連覇をなしとげた。1992年限りで勇退した。



指導者として優れた人心掌握術・育成術を持っていた。巨人軍コーチ時代には渡辺秀武を再生させ、第1次監督時代には江川卓・西本聖・定岡正二、第2次監督時代には斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄の先発三本柱を確立させ、投手陣の整備をおこなった。また野手では、川相昌弘・緒方耕一の積極的な起用、駒田徳広・岡崎郁の“名脇役”としての確立等「磨けば光る逸材」を輝かせる事にかけては定評があった。監督勇退後はNHKで野球解説者を務める傍ら、別所毅彦の死去を受け1999年から2003年まで巨人軍OB会会長を、2005年には四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツアドバイザリースタッフを務めた。2000年頃から体調を崩し、NHKでの解説の仕事も固辞して療養していたが、2006年2月9日午後6時40分、心不全のため東京都世田谷区内の病院で死去した。74歳没。現役時代の颯爽とした姿やスマートな物腰、そして決して選手を責めず常に回りに気遣いを見せるあたたかな人柄から「球界の紳士」と呼ばれていた。
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by nob_io | 2006-02-09 23:02 | 野球関連2006 |
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