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高橋明(64歳)
たかはし・あきら。防府高校卒業後の1961年、巨人に入団。1963年の日本シリーズでは最優秀投手賞に輝き、翌年には開幕投手を務めるなど主力投手として活躍。1971年に巨人・川上哲治監督と西鉄・稲尾和久監督との間で「投手がいなくて困っているだろう」という理由で西鉄ライオンズに移籍が決まった。事実、西鉄移籍1年目には38勝しか挙げられなかったチームの中で14勝を挙げ、チームの勝ち頭となった。1972年限りで現役引退。2006年7月31日、胃癌のため東京都内の病院で死去。64歳。
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by nob_io | 2006-07-31 23:10 | 野球関連2006 |
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長谷川良平(76歳)
はせがわ・りょうへい。愛知県半田商工学校を卒業後、4つのノンプロチームを経て1950年、広島カープ設立とともにテスト生として入団。1年目にいきなり15勝を挙げると、以降8年連続で2桁勝利を記録し、1955年には30勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。毎年最下位争いを繰り広げ、資金難から何度となく存続の危機に瀕していた厳しいチーム事情の中、1957年までの8年間でチーム全体の勝ち星の4割以上を一人で挙げるという大活躍を見せた。黎明期の広島を代表するエースピッチャーであり、長谷川がいなければ現在のカープは存在していなかったと言っても過言ではない。身長167cmという野球選手にしては小柄な体格から、『小さな大投手』と呼ばれた。

多彩な変化球を操ると言われたが、実際の球種はストレートとカーブ、縦横二種類のシュートボールのみで、これらを上手、横手、下手から緩急巧みに投げ分けた。特にシュートの切れ味は群を抜いており、来るとわかっていても当てることができず、どうにか当ててもバットを折ることがよくあった。相手打者から「頼むからシュートを投げないでくれ、バット代がかかって仕方がない」と真顔で頼み込まれたという逸話が残っている。国鉄スワローズの金田正一とは何度となく息詰る投手戦を演じ、数々の名勝負は現在でもファンの間で語り草となっている。1963年限りで現役を引退。通算197勝は、後輩の北別府学(213勝)に抜かれるまでは球団記録であった。

引退翌年の1964年から広島の投手コーチに就任し、1965年途中からは白石勝巳の後を受けて監督を務めた。在任期間中は、安仁屋宗八や外木場義郎ら後の広島を支える若手を育成し、1967年に退任。翌1968年、中日投手コーチに就任。杉下茂・水原茂監督のもと、近藤貞雄コーチらと共に小川健太郎や星野仙一、松本幸行らを指導した。その後再び広島の投手コーチ・ヘッドコーチ、その後RCC野球解説者、日刊スポーツ野球評論家。解説業を退いた後は球界から遠ざかり、ごくたまに広島ローカルのテレビ番組で顔を見せる以外、公の場に姿を現すことはなかった。2006年7月29日、肺炎のため広島市内の病院で死去。76歳。

余談だが広島球団では長谷川の後に安仁屋宗八、外木場義郎、北別府学、佐々岡真司と漢字三文字姓の投手が代々活躍していることから、現在でも「カープの三文字投手はエースの証」と言われている。
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by nob_io | 2006-07-29 23:08 | 野球関連2006 |
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宮田征典(66歳)
「8時半の男」みやた・ゆきのり。群馬県内随一の進学校・群馬県立前橋高等学校から日本大学を経て1962年に読売ジャイアンツに入団。心臓に疾患を持つために先発投手として長いイニングを投げることが出来ず、当時の藤田元司投手コーチの勧めもありリリーフ投手へ転向。当時はセーブ制度がなく先発中心の時代で、リリーフ投手が登板する試合は敗戦試合であることが往々にしてあったが、宮田は持ち前の伸びのある直球、ドロップの握りを微妙に変えて様々に変化させる「ミヤボール」、そして正確な制球力で同点試合・勝利試合に多く登板。

1965年は69試合に登板し20勝(うちリリーフで19勝)、投球回数164回1/3。セーブ制度を当てはめて集計すると22セーブ(41SP)をあげた計算になり、かつ1試合の平均投球回数は2.38回と現在の抑え投手とは比較にならない活躍をみせた。400勝を目指す現役晩年の金田正一の後を受けてロングリリーフすることも多く、登板イニング数が伸びた一因と思われる。後楽園球場の場内アナウンスを担当していた務台鶴が、宮田が登板する時間帯が午後8時30分前後であることに気づき、「宮田さんは、よく8時半頃に登板するのね」と発言したことがきっかけになり、「8時半の男」と呼ばれた。

心臓疾患のために1球ごとの間合いを長く取って投げるのが特徴であった。このことは打者のタイミングを外すのに効果的であったが、他球団などからは宮田の投球は公認野球規則の8.04[1]に該当していると批判が上がった。

1966年以後は肩・肘を相次いで故障。肝機能障害も患い1969年限りで引退。引退後はコーチとして卓越した投球理論や育成法が評価され、巨人以外でも日本ハム、西武、中日などの球団でも長く投手コーチを務める。 西武コーチ時代には当時若手であった工藤公康を指導し、球速を10キロアップさせエースへと成長させた。巨人では入団したてでプロの壁にぶち当たっていた桑田真澄を立ち直らせたほか、宮田の教え子として巨人・上原浩治、中日・川上憲伸の両球団のエースがルーキー時代に指導を受けた。中日では、投球に安定感が無かった野口茂樹を指導。その後野口は2桁勝利を重ね、中日のエースに成長した。

解説者としても解りやすい解説に定評があり、またよく球場へ出向き、自分の教え子達にアドバイスを行う姿も見受けられた。引退後、郷里の群馬県の赤城山麓に練習所を構え、少年野球の指導を行うなど、野球の発展にも力を尽くした。2006年7月13日午後2時11分、肝不全のため前橋市内の病院で死去。享年66。「8時半の男」は、宮田本人も大変気に入っていたネーミングであり、求められるサインには必ず「8時半の男」と記していたという。コーチ時代はどの球団でも背番号「85」をつけていたがこれは宮田の希望で「8時半」の意味を含んでいた。
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by nob_io | 2006-07-13 23:07 | 野球関連2006 |
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