S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
based on "BACKWARD REGION"
<   2007年 07月 ( 1 )   > この月の画像一覧
|
* * *
蔦行雄(77歳)
「攻めダルマ」つた・ふみや。東急フライヤーズで投手、また徳島県立池田高等学校野球部の監督。徳島県立商業学校卒業後、同志社大学経済学部に入学し野球部に所属するが、学徒出陣で太平洋戦争に出征。特攻隊員となる。復員後、日鉄広畑に半年間所属し帰郷。全徳島に加入し都市対抗野球大会に3度出場。1950年に東急フライヤーズに投手として入団したが、わずか1年で退団し帰郷した。

故郷・徳島の池田高校が野球部の指導者を探していたことから、1951年、池田高校に社会科教諭として赴任する。その授業はいつも本題そっちのけで専ら野球の話でもちきりだった。翌1952年から同校の野球部監督に就任。しかし当時の野球部には、戦後の物不足の影響もありボールが3個とバットも2本だけしかなかったという環境であった。

長い間母校・徳商の厚い壁に跳ね返され続けたが、1971年の夏の大会で、池田高校はついに甲子園初出場を果たした。1974年春には、「さわやかイレブン」と呼ばれたわずか11人の部員で準優勝、1979年夏にも箕島高校に惜敗したものの準優勝を記録した。

1980年頃から、芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため、筋力トレーニングを積極的に行い「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で、以後の高校野球のスタイルをも変えてしまった。チームも1982年夏、1983年春と連覇し、名実ともに黄金時代を迎える。当時の池田高校は、類まれなる強さと、蔦監督のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校であった。鋭い打球が自慢のパワー野球で対戦相手を次々にねじ伏せた池高野球から蔦は「攻めダルマ」と畏れられた。

監督として甲子園に春夏通算14回(監督として最後の甲子園出場は1988年夏。岡田康志コーチが指揮を代理した1991年夏を含めると15回)出場し、37勝、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残すも、68歳・監督就任40年目の1992年に勇退した。同年7月には「池田町名誉町民第1号」に選ばれた。その後の数年間、野球部の顧問を務めていたが、体調を崩し入退院を繰り返していた。2001年4月28日に肺癌のため池田町内の病院で死去。77歳。
[PR]
by nob_io | 2007-07-06 05:16 | 野球関連2007 |
* * *
|