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長谷川良平(76歳)
はせがわ・りょうへい。愛知県半田商工学校を卒業後、4つのノンプロチームを経て1950年、広島カープ設立とともにテスト生として入団。1年目にいきなり15勝を挙げると、以降8年連続で2桁勝利を記録し、1955年には30勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。毎年最下位争いを繰り広げ、資金難から何度となく存続の危機に瀕していた厳しいチーム事情の中、1957年までの8年間でチーム全体の勝ち星の4割以上を一人で挙げるという大活躍を見せた。黎明期の広島を代表するエースピッチャーであり、長谷川がいなければ現在のカープは存在していなかったと言っても過言ではない。身長167cmという野球選手にしては小柄な体格から、『小さな大投手』と呼ばれた。

多彩な変化球を操ると言われたが、実際の球種はストレートとカーブ、縦横二種類のシュートボールのみで、これらを上手、横手、下手から緩急巧みに投げ分けた。特にシュートの切れ味は群を抜いており、来るとわかっていても当てることができず、どうにか当ててもバットを折ることがよくあった。相手打者から「頼むからシュートを投げないでくれ、バット代がかかって仕方がない」と真顔で頼み込まれたという逸話が残っている。国鉄スワローズの金田正一とは何度となく息詰る投手戦を演じ、数々の名勝負は現在でもファンの間で語り草となっている。1963年限りで現役を引退。通算197勝は、後輩の北別府学(213勝)に抜かれるまでは球団記録であった。

引退翌年の1964年から広島の投手コーチに就任し、1965年途中からは白石勝巳の後を受けて監督を務めた。在任期間中は、安仁屋宗八や外木場義郎ら後の広島を支える若手を育成し、1967年に退任。翌1968年、中日投手コーチに就任。杉下茂・水原茂監督のもと、近藤貞雄コーチらと共に小川健太郎や星野仙一、松本幸行らを指導した。その後再び広島の投手コーチ・ヘッドコーチ、その後RCC野球解説者、日刊スポーツ野球評論家。解説業を退いた後は球界から遠ざかり、ごくたまに広島ローカルのテレビ番組で顔を見せる以外、公の場に姿を現すことはなかった。2006年7月29日、肺炎のため広島市内の病院で死去。76歳。

余談だが広島球団では長谷川の後に安仁屋宗八、外木場義郎、北別府学、佐々岡真司と漢字三文字姓の投手が代々活躍していることから、現在でも「カープの三文字投手はエースの証」と言われている。
by nob_io | 2006-07-29 23:08 | 野球関連2006 |
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