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カテゴリ:野球関連2007( 27 )
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関口清治(81歳)
せきぐち・せいじ、本名きよはる。西鉄ライオンズの黄金時代を築いた主力選手の一人。台湾に生まれ、終戦後社会人野球の全武生、信州化学を経て1948年巨人に入団。再び社会人野球を経て、2リーグ分裂の1950年西日本パイレーツでプロ野球に復帰。翌年には西日本パイレーツと西鉄クリッパースが合併して出来た西鉄ライオンズに籍を置き、後に迎える西鉄黄金時代の5番打者を務めた。シーズンでは初のリーグ優勝を決めた1954年に27本塁打、1956年にはシーズン最多となる13三塁打を放ってチームに貢献。1958年の日本シリーズ、西鉄の1勝3敗で迎えた第5戦、2-3とリードされた9回裏2アウト3塁、凡退なら巨人の日本一が決まる場面で藤田元司投手からセンターに同点タイムリーを放ち、0勝3敗からの逆転日本一につなげた1打は“一千万円安打”としてあまりにも有名。

1962年に阪急に移籍、翌年引退。「カーブ打ちの名手」といわれ、入団間もない豊田泰光(彼はカーブ打ちがとても苦手だった)が教えを乞うたところ、「金を持って来い」と言ったというエピソードを持つ。引退後は阪急、近鉄、西鉄・太平洋のコーチを歴任、1982-1983年は西本の後任として近鉄の監督を務めた。2007年6月9日早朝、慢性閉塞性肺疾患のため福岡市内の病院で死去。81歳。
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by nob_io | 2007-06-09 05:13 | 野球関連2007 |
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伊藤勲(65歳)
いとう・いさお。宮城県仙台市出身。捕手。1961年東北高校から大洋ホエールズに入団。1964年から正捕手として活躍し始める。1969年には、自己最多の23本塁打、60打点を挙げる。1973年には青田昇監督の下で、初のフル出場をマークした。

1978年オフに捕手難に苦しむ南海ホークス・広瀬叔功監督に請われる形で南海に移籍。79年には10本塁打を放つと共に、長打率は自己最高の4割7分5厘を記録し、南海の最下位脱出に貢献した。オールスター出場5回。引退後は大洋のコーチ、野球解説者を経てマスターズリーグ・東京ドリームスに参加。また2004年から社会人野球・NTT東日本のコーチを務めたが、体調不良のため2006年シーズンをもって退部。2007年5月26日、肺癌のため東京都内の病院で死去。65歳。
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by nob_io | 2007-05-26 05:12 | 野球関連2007 |
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野口二郎(87歳)
のぐち・じろう。戦前から球界では有名な野口4兄弟(全員プロ入り)の二男で、愛知・中京商(現中京大中京)時代には37年夏の甲子園で熊本工・川上哲治投手(元巨人監督)に投げ勝ち優勝。翌春のセンバツではノーヒットノーランを含む4試合連続完封という当時の甲子園大会記録を作り、史上初の夏春連覇を達成。1939年法大を中退し、長男明(故人)と同じ東京セネタースに入団。1年目に33勝、42年には527回1/3を投げ、40勝17敗の成績を残す。同年5月24日の名古屋戦(後楽園)、前日に九回完投勝利を挙げながらふたたび先発し、当時世界最長の延長28回(4−4引き分け)を先発完投(試合は日没引き分け)した鉄腕ぶりは「日没だけが野口を止めた」と語り継がれる。同年投球回数は527回1/3に上り、シーズン40勝はヴィクトル・スタルヒン・稲尾和久(ともに42勝)に次ぐ記録。この年のシーズン19完封は翌年藤本英雄がタイ記録を作ったものの、現在もプロ野球タイ記録。翌1943年25勝をあげて応召。

入団5年で156勝、通算でも237勝を挙げた。戦後は46年から阪急で、徐々に打者としての出場が増えていく。四番を務め、1946年に当時日本記録の31試合連続安打を放つなど打撃も非凡であった。1954年引退。その後は毎日・阪急のコーチ、近鉄二軍監督などを歴任。投手として実働12年で登板517試合、通算237勝。特に戦前・戦中は5年間で平均登板58試合、平均勝利数31勝、平均投球回数は419回に及び、まさに戦前の「鉄腕」であった。1989年、野球殿堂入り。07年5月21日午前9時2分、肺炎のため兵庫・宝塚市内の病院で亡くなった。87歳。

(以下は朝日新聞より)孫たちは、死去を伝える報道で、その偉大さを知ったという。プロ野球で数々の記録を打ち立てた『鉄腕』は、家族にさえ自慢話を一切したことがなかった。
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by nob_io | 2007-05-21 05:11 | 野球関連2007 |
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栽弘義(65歳)
さい・ひろよし。沖縄県糸満市生まれ。沖縄県立糸満高等学校、中京大学卒。高校野球監督として豊見城や沖縄水産を率いて甲子園に春夏合わせて17回出場。沖縄水産では1990年、1991年の全国高等学校野球選手権大会で準優勝を果たしたがエース大野倫の常軌を逸脱した酷使は各所から批判を浴びた。また当時、「アッコにおまかせ」の中継が沖縄で行われたが、島民が野球中継に釘付けで中継場所に殆ど人が集まらないという珍事があった。2002年に保健体育教諭を務めていた沖縄水産を定年退職後も監督を務めた。2007年3月13日に心臓の不調を訴えて入院し手術を受けていたが、5月8日に65歳で死去した。
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by nob_io | 2007-05-08 05:10 | 野球関連2007 |
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中村浩道(71歳)
なかむら・ひろみち。鹿児島県鹿児島市出身。早稲田大学を卒業後、1959年にパシフィック・リーグの東京審判部に入局し1990年の引退まで審判をつとめる。一軍2000試合以上に出場し、オールスターは3回出場した。1990年に定年年齢到達に基づき引退したあと数年間は東京審判部の指導員をつとめた。英語が堪能で、米国の野球事情に精通した審判員であった。現役審判時代の80年代シーズンオフには渡米、アメリカ審判学校に入校した経験もあり、常に最新の審判技術を日本へ導入しようとしていた。1970年代半ばから、当時としては珍しいインサイドプロテクターを使用していた。 また、現役時代からNHK・BSのメジャーリーグ解説者、週刊ベースボールのレギュラー執筆者という、珍しい経歴をもっている。2007年4月6日、クモ膜下出血の為死去。71歳。
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by nob_io | 2007-04-06 04:53 | 野球関連2007 |
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菅野光夫(54歳)
すがの・みつお。武相高校卒業後、社会人野球の三菱自動車川崎を経て1975年ドラフト1位で日本ハムに入団。当時の日本ハムは、1976年に行沢久隆、1978年には古屋英夫、1979年には高代延博と若手内野手を次々と獲得し、彼らの成長が1981年のリーグ優勝をもたらす一要素となった。菅野も内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして、地味ながら優勝に貢献した。

1985年に現役引退し、翌年日本ハムの守備走塁コーチに就任。2000年には二軍トレーニング兼内野守備コーチ。2005年からは鎌ヶ谷の選手寮「勇翔寮」の寮長を務め、ダルビッシュ有をはじめとした若手の面倒を見続けた。2007年1月の球団の健康診断で肝機能の数値が高いということを知らされ、2月に検査を受けた。直腸に癌らしきものがあると言われ、3月に再検査をし、直腸癌と確定された。予想以上に癌の進行が早く入院したが、同年3月22日、直腸癌による心不全のため死去。54歳。
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by nob_io | 2007-03-22 04:26 | 野球関連2007 |
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松田清(76歳)
まつだ・きよし。東京都出身。1949年にテスト生で巨人入団。左腕から大きく縦に落ちるカーブを武器に、51年には23勝3敗で新人王と防御率(2・01)のタイトルを獲得。同年5月23日広島戦から10月4日中日戦までマークした19連勝は、半世紀を経てもセのシーズン最多連勝として破られていない(日本記録は稲尾の20連勝)。56年に国鉄(現ヤクルト)に移籍し、外野手転向。打者として61年までプレーし、引退した。07年2月18日午後、虚血性心疾患のため大阪府羽曳野市の自宅で死去した。76歳。
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by nob_io | 2007-02-18 04:28 | 野球関連2007 |
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